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日本コーチ協会山口チャプター 特別講演会
「人生を劇的に変える『自分軸』のみつけ方」 を開催します。 「自分軸」をみつけ、充実した人生を送りたい方、 スッキリした気分になりたい方に、ぜひおすすめの講演会です! ★開催日時:2009年11月28日(土) 13:30~16:30★ ★開催場所: パルトピアやまぐち (防長青年館) ★ 〒753-0064 山口市神田町1-80 TEL:083-923-6088 http://www2.ocn.ne.jp/~paltopia/09axs/09axsb.html ★参加費:一般 4,000円 / 会員3,000円 新規会員 3,500円(入会金500円含む・当日入会可)★ ★定員:100名(先着順/お席がなくなりしだい締め切らせていただきます。お早めにお申し込み下さい)★ ★講師:平本あきお氏★ PROFIEL 株式会社 ピークパフォーマンス 代表 平本あきお氏 北京五輪柔道金メダリストの石井慧氏や、2年連続ラグビー日本一の早稲田大学ラグビー部中竹竜二監督などを、メンタルやマネジメント、コミュニケーション面から支えたピークパフォーマンスコーチとして知られる。1965年神戸生まれ。東京大学大学院修了、米国シカゴのアドラースクールで心理学専攻、修士課程修了。 あなたは人生の「勝ち組」ですか?「負け組」ですか? 他人の物差しで自分を計ったとしたら「負け組」になってしまうこともある。 しかし、世界でたった一つの「自分だけの物差し」(=自分軸)を見つけ、「自分らしさ」「ありたい姿」が明確になってさえいれば、必ず実現する形を見つけ人生の成功を手にすることができる。 だから、人生に「負け組」はない。 平本あきお氏の講演は、コーチやカウンセラーとしての豊富な経験談はもちろん部下指導やマネジメントに役立つお話も満載です。 平本あきお氏について ちらしはこちら お申し込みはこちら 申し込みフォームが表示されない場合はこちら 平成21年11月28日(土)
日本コーチ協会山口チャプター 特別講演会 講師の平本あきお氏の紹介です。 オリンピック金メダリストコーチ 平本あきお氏のストーリーは、なぜ人の心を惹き付けるのか。 東京大学大学院修了、米国シカゴのアドラースクールで心理学専攻、修士課程修了と、 輝かしい結果と立派な経歴に目が行きますが、 実は、高校時代はヤンキーで、偏差値37。 神戸の貧しい地域で生まれ育ち、中学から新聞配達やウエイターのアルバイト。 そんな環境の中、 「いったい、何が人の幸せを決めるんやろ?」、 「大学に行って、心理学を学びたい!人がよりよく生きる科学的で体系的な方法を学びたい!」 という思いから、親も先生も友達も反対、金もない、頭も悪い・・・という逆境を乗り越え、三浪して大学進学。 阪神大震災で両親を亡くすも、がれきの後片付け後、米国に留学。 渡米4年半後、2001年帰国当時、日本は不景気真っ只中、所持金10万円のみ。 頼れる両親も親戚もいない中、友人宅に居候させてもらいながら、日本での生活をスタート。 「コーチングで日本を元気にする!」と決めて、2年で青山表参道にオフィスを構え、 現在までに数多くの企業研修、経営者やアスリート、芸能人などをコーチングでサポート。 平本あきお氏の人生、なぜ、そんなことが可能だったのでしょうか? いくたびの逆境を乗り越え、あきらめずに人生を切り開くことができたのは、 平本あきお氏自身が、「自分軸」を持っていたから。 どんな環境でも状況でも、希望を持ち、やる気と行動が続いたのは、「自分軸」が見つかっていたから。 平本あきお氏から、環境や状況がどんなに大変でも、希望をもって充実した毎日を過ごしていくための秘訣、 「自分軸」のみつけ方、について話を聞いてみませんか? 「『あなたのために』という言葉はいついかなる時も美しくない」
… 大島弓子著 「サバの秋の夜長」より 大島弓子が少女漫画界での天才だったということは、今現在そんなに多くの人は知らないと思う。 手塚治や藤子不二雄や石森章太郎など少年漫画の天才群は、トキワ荘を舞台に漫画の未来を切り開いていった。 大島弓子や武宮恵子そして萩尾望都など少女漫画の天才群は、単なる「未来への希望」ではなく、さらにその先に待つ「残酷な近代」をその作品で予言していった。 特に大島弓子は、その絵の超童話的なかわいらしさとは対照的に、人間や時代の残酷さや生や死、希望や絶望を奇妙なほど穏やかに融合させた作品を生み出していた。 「サバの秋の夜長」は、そんな作者と飼い猫‘サバ’の「共同生活」を描いた自伝的作品だが、そこには人間や猫そしてあらゆる生き物が持つ、その幻想と孤独が冷感のある視点で描かれている。 「なぜって猫はすでに進化の果ての生物のような気がするから」 「猫と桜はさわってもさわっても遠い感じがする」 そして 「『あなたのために』という言葉はいついかなる時も美しくない」 …飼い猫に思わず愛情を押しつけた自己嫌悪を、作者自身が振り返っての言葉… このような客観は、「自分が自分が時代」の「ポジティブ強迫世界」と化した現代には、実はもうあまり居場所がない。 その証拠に寡作となった大島弓子が、現在進行形で書き続けている「グーグーも猫である」は、まるで時代に敗北したかのような、彼女とネコの自閉的ともいえる依存関係が描かれている。 だからと言って彼女を批判できるはずもない。 近代化の途上、彼女たち天才漫画家のおかげで、多くの少年少女そして男と女が、強烈な資本の論理と、自らの幻想に折り合いをつけて幸福な時間を過ごすことができた。 幻想が失われ、資本の論理が生き物の「健全」を危険にさらす現代まで、彼らにおんぶや抱っこをしてもらうわけにはいかない。 猫は進化の果てに、孤独と自分をひとつにする存在の秘儀を身につけたようにも見える。 たぶん今、人間にもそんな「進化」が問われている。 …研修委員:黒木雅裕 人間はかなりの割合でダメな存在で、だからそのことが書けてない本は少なくとも文学とは言えない。
特に作者に「自分こそそのダメさの当事者なのだ」という意識が無い本は、結局乾燥した「教本」にならざるを得ない。 「シネマ狂躁曲」は、梁石日の自伝的小説だ。というより仮名こそつかってはいるが、作者の人生のある時期を切り取ったほぼ自伝である。 梁石日は自分がダメだからこそ、本を「書かざるを得ない」人間で、だからこそこの本には人間のダメさ加減という文学の果汁が、「100%濃度」でつまっている。 まず主人公である作者本人がダメだ。小説でこれほど自分を客観視できるのに、いったいなぜこれほどと言いたくなるほど、彼は自己崩壊的に放逸で不摂生。 ダメさ加減では人後に落ちない僕にも思い当たるところがたくさんあるわけで、彼のダメさがそのまま自分の「ダメの果汁」として再認識できちょっと安心もする。 そしてダメな人間もやっぱりなにがしかの希望を持つ。 だからもちろん作者も希望を持つ。彼は自分はダメだし、長生きもしないだろうと諦観しているわけだが、それでも希望を持つので、小説を書き、そしてその小説の映画化に狂躁する。 さらにはそれにむらがる、やはりダメな人間たちが、それでも一緒に何かを作ったり、騙したり、飲んだり、食べたり、決意を固めたり、逃げ出したり、楽しんだり、苦しんだりするのだ。 結果ダメ100%ということになる。 資本の論理の中で、それでもなにかを「やりとげる」ことで自分を保つために、幻想と隣り合わせだとわかっているのに、それでも捨てることができない現代の人間の希望… 資本の論理の中で、欲望と不満の狭間の、狭いところ狭いところに追い込まれていく肉体の危機を感じながら、それでもただ生きることを強いられる、現代の人間の絶望… まあ、そういう現代という時代への、数少ないこころの免疫抵抗力が、「自分などなにほどのものでもない」といういい意味での生きることへの見切りというか、自意識の整理整頓だと思うし、その意味でやっぱり文学はいまだ存在価値を使い切ってはないと思う。 自分自身への見切りから始まる希望と絶望は、いわゆるメディアで商品として消費される希望と絶望と違って、少なくとも「自然」で「健康」なものだ。 だからこの作品最後はハッピーエンドです。 研修委員:黒木雅裕 「ディズニーマジック」という言葉がある。
いつだったかディズニーランドに行った時、「ではディズニーマジックは一体どこまで有効なのか?」とふと思いつき観察してみた。 難しく考えることはない。 ディズニーランドを訪れたお客は、ディズニーランドの中で、思わず色々なものを買ってしまう。お菓子やストラップ、高い物になればディズニー工房で作られたフィギュア、帽子やバッジなど… ディズニーランドで遊び終わって、ゲートを出て電車の駅に向かう。 この時まだお客は園内で買った帽子やバッジをつけたままでいる。もうディズニーランドの私有地を離れているにも関わらずまだ「ディズニーマジック」にかかったまま… 親も子も恋人同士も笑顔をたたえて、無防備に現実の街に向かって歩き出す。 さて電車に入る。まだたくさんの人が帽子をかぶりバッジをつけ、人によっては風船を携えていたりする。親子も恋人も今日の体験を「もうちょっと」反芻しておきたい風情だ。 一駅目。 お客の表情が変わっていく。ディズニーランドから日本の現実へ…笑顔は縮小され僕たちがいつもの街で自分を守るために装着する、無機質な表情へと笑顔の薄皮がはがれていく。 二駅目。 幾人かがミッキー帽をぬぎはじめる。気がつけばあれだけいた「ディズニーランドの住人」が夢と善意、正しさや魔法をおみやげバッグの中にしまい始める。 三駅目。 もう誰1人としてミッキー帽をかぶっている人はいない。これは現実の話だ。乗車してから10分?15分?カボチャの馬車はあっとういう間にただの電車に戻った。 だからといってディズニーマジックが弱くて脆いなどと言いたいわけではない。 むしろ逆だ。ディズニーランドを出てから電車で3駅。距離にすれば10キロ弱…そんなにもディズニーマジック=現実からの逃避力は強力なのだ。 そしてディズニーランドから送られてくる、ほとんどの写真は、まさにそのディズニーマジックというコーティングがかかっている。 アクリルで漂白されたような彼らの写真は、綺麗で安全でそしてちょっとだけ現代という病がかっている。 僕はほとんどディズニーランド関係の写真や映像はもって無くて、また持ちたいとも思ってなかったが、そんな僕が、この写真集「DREAM」に限っては一読してすぐ本屋のレジに持っていくことになり正直びっくりだ。 ディズニーランドが「時代の現実」として描かれている。 今までディズニーがかたくなに許さなかった、ディズニーマジックがはぎとられた生ものとしてのディズニーランド… 当代最高峰の写真家たちが、世界観と技術とそしてその「意志」によってディズニーランドを「ヌード」にしている。 これまでディズニーランドの写真は、いつもその「夢と魔法」によってコントロールされてきた。 そして、たぶんディズニーランド史上初めて、ディズニーランドはその「夢と魔法」を解除され、僕たちの「時代の現実」として写真集のなかに再登場している。 それは思いのほかに美しい。 ディズニーランドの世界観は、コントロールされた完全な世界への固執だ。それは不安な現実に対する鏡写しの理想郷として今後も長らく続いていくだろう。 コントロールされた安全の中に住むか、不安な現実と向き合うかはそれぞれの人の選択だ。 だがこの写真集を見る限り、本当の「DREAM」は、やっぱり「時代の現実」の中に探すしかないのだろうと思う。 …研修委員:黒木雅裕
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