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<   2009年 02月 ( 10 )   > この月の画像一覧

挨拶論 (10)

◆挨拶と安心感

挨拶の心理についていくつかの例を見てきたけれど、要約してみれば…

1.挨拶とは相手との距離をとること
2.挨拶とは相手に協力の意志を示すこと
3.挨拶とは相手に敵意が無いことを示すこと
4.挨拶とは相手と利害を共有すること

というところだろうか。
そして僕たちが意識しておくべき挨拶の現代的な意味としてもうひとつ

5.挨拶とは相手の存在を認めること
をあげておきたい。

そのすべては相手に安心感をもたらすため、あるいは自分が安心感を持つためのものだ。人間は見知らぬ人に会えば、まず最初に相手が危険な存在か、安全な存在かをあらゆる感覚器官を使ってさぐりだそうとする。

そしておよその見当をつけ、その相手にふさわしいと思える最小限のメッセージを想定し、相手にそれをそっと送ってみる…わたしはあなたの敵じゃないよ…

返ってくるのは無視かもしれないし、笑顔かもしれない。でもその中身はあんまり問題じゃない。返ってきたメッセージで、相手がどんな人間かを知ることこそ挨拶のポイントだ。

挨拶は相手の安全性を知るためのリトマス試験紙だ。相手の色があなたにとって安心できるものなら、さあコミュニケーションの始まりだ。

…研修委員:黒木雅裕
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by y-coach_net | 2009-02-27 11:35 | 黒木さんのコーチング

挨拶論 (9)

そして山の民は海の民の挨拶に応え始める。海のモノが置かれた浜辺に、交換したい山のモノを並べて置いておく。そして一日様子を見る。すると…その量や種類が自分達のほしいモノであれば海の民はそれを持って帰る!

山の民は、自分たちが置いたモノを海の民が持って帰るのを確認して、今度は海の民のモノを持って帰る…こうやって人類は初めて、盗んだり奪ったりせずに、ほかの民族のモノを手にいれることができるようになった。

それを繰り返すうちに、今度は民族同士の信用が生まれていく。商業とは相手を信用することから成り立つ物々交換の技術だ。信用が積み重なれば、直接顔を合わせて交換することもできるようになり他の民族も参加できるようになる。

多くの民族が物々交換が始まったその場所に集まり、決められた時間にモノを交換するようになり…いわゆる市場が生まれる。そこにお金というモノの価値を計るモノサシを加えれば、立派な市場経済の誕生だ。

ちなみにこの信用がなくなるとモノもカネも動かなくなる。サブプライムローン問題もその根っこは信用問題だ。今、世界でもっとも影響力があるアメリカの銀行やアメリカという国そのものへの信用が失われている。だから世界中でモノもカネも動かなくなって地球規模の不況が生まれているのだ。

市場経済が生まれたおかげで、人はモノと技術を交換できるようになり、利益を得たり新しいモノを作り出すことができるようになり、貧しさを一歩一歩克服していくことになる。

地球規模での豊かさの誕生には1820年代の産業革命まで待たなければならないが、その原点は古代の海の民が浜辺に置いたひとかたまりの貝、すなわち相手を信用するという挨拶だ。

豊かさがすべてではないが、豊かさがあれば少なくともモノを食べられずに死ぬことはない。また自分の家族を飢えて死なせることもない。海の民の挨拶は現代の豊かさの原点なのだ。

…研修委員:黒木雅裕
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by y-coach_net | 2009-02-26 11:17 | 黒木さんのコーチング

挨拶論 (8)

そこで登場するのが物々交換だ。これがまたおもしろい。

まずは海の民と山の民での交換という単純な形で始まる。ほとんど接触が無いために、おたがいの相手に対する警戒感、恐怖感、不安感は僕たちが外国にいくときに感じるそれなどまったく比較にならないほど大きい。

相手がどんな姿形をしているのか、穏和なのか攻撃的なのか、急に攻撃や略奪を受けたりしないのか…情報の欠落は逆にさまざまな空想をもたらして、相手をより巨大なもの、あるいはより凶暴なものとして認知しただろう。

しかしそれでも、自分の海や土地では取れない生活必需品はひつようだし、やっぱり新しいモノや美しいモノ、あるいはおいしいモノもほしい。だからなんとか海のモノと山のモノを交換する方法を考えださないといけない。

最初に働きかけたのは海の民だ。山の民の領土に接する浜辺に海で採れたおいしいモノ、それはもちろん魚で、貝で、あるいは海草だったろう。なかなか気づいてもらえないが、粘り強く海のおいしくて役に立つものを浜辺に置き続けた。

山の民は最初はその意味がわからない。ささげものなのか、捨てるものなのか、陸上にモノを貯めているのか…。そして試行錯誤の中から、それは海の民が山の民とモノを交換したいためのメッセージだと気がつく。

「私たちはあなたたちと仲良くしたい。そしておたがいのモノを交換してより豊かになりたい」というメッセージすなわち挨拶だと。

…研修委員:黒木雅裕
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by y-coach_net | 2009-02-20 19:55 | 黒木さんのコーチング

挨拶論 (7)

◆物々交換という挨拶

異文化同士のコミュニケーションは物々交換に始まる。

商業の始まりは紀元をはるかにさかのぼるが、もともとは相手のことをまったく知らない、山の民と海の民が生活必需品を交換することから始まった。

古の時代は、現代に比較すれば限りなくゼロに近い情報しか無かった。言葉も地域ごとに違っていたし、異民族が行き来するための道路もない、たまに遭遇するのは食料の奪い合いという状態なのだから、情報が行き来する基盤が無いのだ。

だから異民族同士は、相手をまるで宇宙人のように得体のしれないものとして認識しおたがいを恐れていた。接触を避け出来る限り自給自足で民族内の生活を満たしていた。

しかし人口が増えてくると自給自足に頼ってばかりはいられない。限られた土地から得られる食べ物や資源は限られているし、豊かになってくればもっとおいしいもの、もっと綺麗なものがほしくなる。この辺は貿易立国日本が戦後歩んできた道のりと変わるところはない。

…研修委員:黒木雅裕
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by y-coach_net | 2009-02-19 10:47 | 黒木さんのコーチング

挨拶論 (6)

学校ではよく「きちんと挨拶しなさい」と習う。これがまたちょっと難しい。

先生の言う「挨拶をしなさい」には、実は「先生である私を尊敬しなさい」という命令が隠されている。しかし先生への尊敬はかって国家が学校に与えた架空の権威だ。今の子供たちに先生だから尊敬するというメンタリティは無い。

先生の実体や学校の硬直したシステムまで、あらゆる情報がすべての人間に伝わる今の時代では、尊敬に値する人間であれば尊敬を受ける。そうでなければ軽蔑される。架空の権威はもう使えない。

もうひとつ、もともと挨拶は、利益をもたらす方が受け、利益を受け取るが方がするものだ。その視点から見ても、「きちんと挨拶しなさい」と命令するのはムリがある。生徒は教育サービスを受けるお客だ。本来挨拶すべきは先生の方だ。

一方、学校の先生にも同じフラストレーションがさかさまにかかっている。

子供が本当にお客さんであれば、決まりを守らなかったり、お金を払わなかったりしたら、単に警察に知らせて罰してもらえばすむ。その証拠に、学校で暴れる子供はいるがディズニーランドで暴れる子供はいない。

しかし子供も親も、国が作った学校というシステム上、先生が生徒を簡単には排除できないことを見ぬいている。いわゆる世論も、何か事件があればほとんどの場合学校や先生の責任に転嫁する。だから先生は、いつも立場の防衛に神経をとがらさざるを得ない。

挨拶を指導する声にもつい力が入ってしまう。

そして情報の拡大で頭が良くなった子供たちは、そういうレベルの低い戦略に乗せられることは恥ずかしいことだと気づいている。

先生にいわれるとおり、へたにきちんと挨拶などすれば、仲間からモノゴトの分からない人間と見透かされ軽蔑され仲間はずれになる。子供たちにとってきちんとした挨拶は、いまやむしろ生きる障害なのだ。

「きちんと挨拶しなさい」はどんどん通用しなくなっていくだろう。先生にも子供にも、挨拶の新しい戦略が必要だ。

…研修委員:黒木雅裕
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by y-coach_net | 2009-02-14 00:24 | 黒木さんのコーチング

挨拶論 (5)

◆“Hai”と「きちんと挨拶しなさい」の戦略

ホテルのエレベーターの中などでたまたま欧米人らしき人に会うと、かなりの確率で笑顔で“Hai”と声をかけられたりする。目をちょっとあわせて“Hai!…

何かの本で読んだのだが、彼らは「私は今あなたに対して敵意を持ってないですよ」と相手に伝えるのが社会習慣になっているらしい。ということは、うまく他人とうまくつきあうための文化として“Hai”が定着しているということだ。

たぶん異民族同士の紛争や戦争を何百年と続けたりする歴史的背景があって(ここが日本と違うところだ)、それを避けるための手段として定着したものなのだろう。シビアに言うといつ命の奪い合いになるかわからないような対立がいつも身のまわりにあって、それを避けるための「生活必需品」なのだ。

この視点か言えば、挨拶は「相手に敵意をさりげなく示してムダな攻撃を避けるための戦略」と言える。

だから“Hai!”と声をかけられたらたとえ英語が苦手でも、ちょっと笑顔で“こんちは”と返した方がいいかもしれない…でないと自動的に「敵」あつかいなんてことも?…

…研修委員:黒木雅裕
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by y-coach_net | 2009-02-10 11:17 | 黒木さんのコーチング

挨拶論 (4)

◆挨拶の格差

挨拶には格差がある。

たとえば僕たちがどこかそれなりに高級なレストランに入ったとしよう。そこには挨拶をする側と挨拶をされる側という立場の違いが生まれる。市場社会では、この挨拶の格差が、ネコの目のように瞬間、瞬間に変化しながら僕たちの立場を変化させていく。

自分がモノを買う立場のとき、僕たちは無意識に自分を挨拶を受ける立場に置く。逆に自分がモノを売る立場の時は、無意識に自分から挨拶を施す立場に置く。要するに利益を与える側と利益を受ける側という、市場原理における基本的な人間関係が挨拶の格差を形づくる。

ここらへん、なんか挨拶の本質に少しばかり触れそうな感じがするので、もうちょっと遡ってみると…王様と家来というような封建制度の時代にはたぶんもっとはっきりと挨拶の格差が認識されてたはずだ。

例えば室町時代に家来が将軍に面会しようとしたら、何十項目にも渡る儀式をこなしてようやく部屋に入れ、さらにはお辞儀をさせられたまま声をかけてもらうのを待ち、にじるように膝を進めてようやく情報伝達できる距離に近づけたらしい。挨拶にもほどがある。

そんなことからみても挨拶には二つの機能があることがわかる。

ひとつは、私はあなたに敵意がありませんよ、という攻撃心の封印を示す機能。もうひとつは、私はあなたの命令に従いますよ、という積極的服従の意志を示す機能。どちらにしろ人間が本質的に持つ攻撃性をできるかぎり避けようとするための機能だ。

…研修委員:黒木雅裕
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by y-coach_net | 2009-02-06 22:52 | 黒木さんのコーチング

本の紹介…「おかしな男 渥美清」 小林信彦著

すべての人間は、できることなら自分のやりたいことだけをやって生き、自分の好きなことを仕事にしたい、そして自分の才能を100%発揮して「その他大勢」でない特別な人になりたいし、少なくともまわりからせめて軽くあしらわれるようなことのない人間になりたいと考えている。

と同時に最近思うのは、競争で身もフタもなく勝敗が決まるこの市場社会で本当に必要なのは、「やりたいことをやること」や「才能を見つけて伸ばす」ではなくて、この市場社会で「いかにして死なないで生き続けていくか?」ということではないかということだ。

なまじっかな収入を得ていても、ほんの少し社会状況の変化すればたちまち生命の危険に直結するのが、低成長時代に入った日本の実情だ。

特に日本は、低成長時代に入ってからの期間が短いので、北欧などの高社会福祉国に比べて、人が「死なない」ためのセーフティネットが格段に弱い。

この、「死なない」ということは、文字通り「肉体的に死なない」という意味もあるが、もう一つ重要なのは「社会的に死なない」ことだ。

人は仕事によって自分が何ものであるかを確認する。人は「いつでも誰かが代わることができる仕事」をしている限り、自分は他の誰でもない自分自身である、という認識を持つことができない存在なのだ。

渥美清は、私たちにとっては下町の人情家「寅さん」を演じた泥臭い俳優に過ぎないが、彼は、実はもともとハリウッド映画的なモダン・コメディアンを目指した芸能界の野心家だった。

彼は、野望と才能を発揮し、いつもテレビ局とのコネクション作りを欠かさず、結核で片方の肺を失った虚弱な体に折り合いをつけ、そして電話機しかない狭いアパートを孤独な作戦基地にしてそれでも成功の階段を上っていった。

一時期は、植木等のライバルと見なされるほど、演技、ものまね、ギャグともに突出したタレントだったが、あまり人を信用しない剣呑な性格と、テレビ的に受けるための「可愛げ」の無さ、なにより「現代的でない風貌」が壁になったのだと思うがテレビの世界では結局失速していった。

モダン指向の渥美清にとって、「寅さん」の世界観ほど、コメディアンとしての理想像から遠いものはなかったのではないか。最初の頃こそ俳優としてのチャレンジ精神を刺激されただろうと思うのだが、まさか残りの半生を「架空の下町」葛飾柴又で「人情家のフーテン」として生きることになろうとは…

若き渥美清には才能もあったし、努力もあったし、野心もあったし、運もあった。しかし近代化していく日本の中で時代に遅れていくという「宿命」を乗り越えることはできなかった。しかしそれでも彼は「死なない」ために、最後まで泥臭い世界の住人として生き続けた。

人は自分の才能や生まれ落ちた家族や社会、そして時代という「宿命」とどう向き合って生きるべきか…人は常に「自由意志」と「宿命」のはざまで嵐の中の小さな舟のように揺られている。もしできれば、可能であるならば、「宿命」に勝って「誰でもない何か」になるために。

研修委員:黒木雅裕
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by y-coach_net | 2009-02-05 22:27 | 本の紹介

挨拶論 (3)

◆あまり親しくされたくない。でも無視はされたくない。

セブンイレブンの利用者の買い物をする時の基調低音は一言で言えば、あまり親しくされたくない、でも無視はされたくない、ということにつきる。

近代化した社会では、ただ生きるという意味では他人との協力関係はあまり必要がなくなる。他人とのコミュニケーションがなくても生存に必要なものは手に入るし、そうなれば人はなるべくコミュニケーションという危険でめんどうな作業を避けようとする。

だからといって、誰かとつながっていたい、という人間の根っこにある孤立を恐れる気持ちがなくなるわけではない。だから現代人は、コミュニケーションは面倒くさいからしたくない、でもそれでも誰かと話せないとさみしくて苦しいというこころの裏表をかかえて歩くことになる。

そこで登場するのがセブンイレブンの挨拶だ。

セブンイレブンの挨拶は、気持ち低めに設定してある。たぶんそれはほとんど時代の温度と同じだ。というよりも見方によればセブンイレブンこそ日本の現代とも言えなくはないか?という極端な連想もわいてくるほどその温度は絶妙だ。

挨拶が聞こえる。それは丁寧な場合もあるし雑な場合もある。声が大きい場合もあるし小さい場合もある。しかし丁寧さ以上の親しみは込めらることはないしだからといって挨拶されずに無視されることもない。

セブンイレブンのこの挨拶の様式は、偶然生まれたものではない。セブンイレブンのトップの鈴木敏文さんは、いつも経営は心理学だと語る時代の分析者だ。現代人の人間関係の距離間を分析して、それを設備や接客のマニュアルに落としこんでいる。

そしてなによりセブンイレブンという場を利用するお客がそれを望んでいる。親しくされたくはないけれども無視はされたくない。無視はされたくないけれども親しくはされたくない…今年セブンイレブンの売り上げは日本のすべての百貨店の合計を越えたという。

…研修委員:黒木雅裕
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by y-coach_net | 2009-02-03 16:44 | 黒木さんのコーチング

挨拶論 (2)

◆挨拶の温度

挨拶には温度がある。

特に今の日本では、場の雰囲気を精密に察してそれにあった温度の挨拶をしないといけない。元気すぎてもいけないし、暗すぎてもいけない。なれなれしすぎてもいけないし、よそよそしすぎてもいけない。自分をみせすぎてもいけないし、隠しすぎてもいけない…

そのあたりの温度を間違えると、「あ、この人はわからない人」というラベルを貼られて、ソフトに仲間はずれされてしまう。まあイジメとまではいかなくてもなんとなくお昼ご飯には誘われなくなったりする。ちょっと病理的だけどそんな雰囲気がある。

病理的ではあるが、それが今の日本のコミュニケーションの平均温度だと思う。だからこそコーチングなどの、コミュニケーションを市場の熱で調理しようというベクトルも生まれるし、それに対して需要が生まれるのだ。

その視点で興味深いのがセブンイレブンの挨拶だ。体温にしてみれば35.6度位?コンビニエンスストアの挨拶の温度は、健康診断的な基準から見れば微妙な低体温を示してる。いらっしゃいませやありがとうございました、おはしはいくつおいれしますかからレシートはご入り用ですかまで…

もちろん店ごとスタッフごとに挨拶の質は上下するが、その背景に流れる基調低音というか場の体温というか、そういうものが日本全国驚くほど共通している。いやそれどころか、僕は東南アジアに進出したセブンイレブンに入ってそこにも微妙な低体温があるのを感じてびっくりしたことがある。

セブンイレブンの挨拶が微妙な低体温になるのは、もちろん偶然ではない。それは経済成長を終えた日本の、新たな社会価値に適応するために、いい意味でも悪い意味でも大きく変容した日本のコミュニケーションのあり方を反映している。

…研修委員:黒木雅裕
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by y-coach_net | 2009-02-02 10:32 | 黒木さんのコーチング